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過去記事です。

2011年12月11日肥田舜太郎先生講演会「線量が低ければ大丈夫なのか?」

2011年12月11日 肥田舜太郎先生講演会

「線量が低ければ大丈夫なのか?」

場所:さいたま市浦和区・ときわ会館大ホール
主催:埼玉反原発アクション



講演会の内容をまとめようと思った所、主催者の方から資料が送られてきました。
こちらに全文掲載します。





こんにちは。ご紹介いただいた「肥田舜太郎」という内科の医者です。3月11日に地震と水害があって、テレビに釘付けになって、水害が押し寄せる様子を息を止めて見られたことだと思うのですね。ちょうどその時に、福島にある第一原子力発電所が事故を起こした。電気系統が止まって高熱を冷やす水が回らなくなって、ウランとプルトニウムを混ぜたプルサーマルと言う燃料が溶けて大事故になりました。

政府の発表は、政府自身、原子力発電所がどうやって電気を起こしているのかわかっていないことを示しました。誰も知らないのですね。だから、どうしてよいのか判らない。原発で働いている職員も経験がなく、どうしてよいか判らない、と言う状態が続いた。
いままで、原子力発電所の大事故というのは、アメリカのスリーマイル島(TMI)の原発事故とロシアのチェルノブイリ事故があります。この被害をそれぞれの政府は隠そうとしましたが、被害が相当多くの国にも及んだ関係から隠しきれずにだんだんと中身が分かって来ました。

◆今も続く緩慢なる殺人ー放射能被曝

日本人は広島と長崎の原爆が大変だったということは、直接体験していない人でも話は聞いていて、大人の方はご存知だと思う。ところが、「知っていること」はどういうことでしょうか。

原爆という爆弾が落ちて、広島・長崎という人口40万前後の大都市が一瞬にしてなくなった。焼けただれ死んでいく仲間の中で、不思議に自分は生き残った。瓦礫の中で生き残って、あたりを見回してみたら街は何にもない。自分の家族もみな死んじゃう、家は焼けちゃう。人間として社会に生きているわけで、その社会そのものが何もなくなった。そういう状態のことを生き残ったものは皆話すのですね。

ところが、私たち医者から言わせると、あの被害の中にいて66年経った今日まで、当時に受けた影響でガンが発生したり、白血病が出たり、肝臓の病気が出たりして死んでいく人、あるいは入退院を繰り返している人がたくさんいるんです。火が出て、建物が潰れて、何もなくなったというのは一瞬のことです。
 
みなさん、今、広島・長崎に行ってみれば、どこが爆弾が落ちたのだというくらい、きれいな街になっている。しかし、住んでいる幾人かの体の中には、放射線の被害が残っていて、その人は66年間、まともな人間としては生きてこれなかった。他人のやっかいになり、家族のやっかいになりながら、しかも、お医者さんに行っても、「あなたは原爆のためにこんな体になったんですね」ということは言ってもらえない。体の中には、何も残ってない。今の医学で見ても、「放射線の被害というのはあったのですか」というようなことが全然判らない。今、人類が持っている医学的な知識、かなり高度なところまで発展している医学的な知識を持ってしてもまだ判らない。そういう放射線を使った新しい殺人が広島・長崎で行われた。

だから、どんなに一つの街が瓦礫野原になった、建物はない、人は生きていない、そういう写真を見ても、それはあの爆弾の本当の被害を知っていることにはならない。本当の被害は、人間の命に対して非常に長い時間をかけてゆっくりと殺していく、放射線の被害なのだと僕は思っている。


◆放射能被害を隠し続けたアメリカと日本政府

vところが、放射線の当時の被害は、そういう被害があったということも含めて、日本を7年間占領したアメリカ軍が全て隠してしまった。当時、政府の実権はアメリカ軍が持っていて、日本の政府は何の権限もなかった。天皇陛下もない。日本人は、あめりかの占領軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍の命令でかろうじて生かしてもらっていた。食べること、着ること、家を建てること、何から何まで全部マッカーサー司令部の許可を得て我々は生きてきた。そういう時間が日本は7年間あった。占領されたということを知っている人は何人かいるかも知れないが、皆さんはその頃生まれていないから、あまりご存じないでしょう。原爆の被害はアメリカが記録していて、日本政府もそれを言うことを禁じられていますから、政府も言わない。そのために、どういうことが実際に起ったのか、何も知らされなかった。

戦争に負けるということがどんなに悲惨なことか、僕らは味わって来ました。そのかわり、日本が戦争を行なって被害を与えてきた、アジアの中国や南方の国々の国民は我々が占領下に味わった以上のもっと惨たらしい侵略を受けて、たくさんの人がいまだに自分の祖先も母親も日本人に殺されたんだという人がいっぱいいます。この人たちが日本に好意を持つはずがない。口には出さなくたって、腹の中で若い日本人の顔を見ればもしかしたらこの人のお父さんが私の母親を殺した人かもしれないという感情を持っている。

その中で、日本は急速に経済的な発展をして、商売の関係でアジアに進出して、そのアジアの人達を目下のように扱って今日の発展をつくってきた。ところが、まあのぼせ上がった面もあるのですが、人間が使ってはいけない放射能を使って、放射能を出す物質を電気を起こす材料に使えば安く電気が起こせる、儲けがしこたま入るという魅力で、この狭い国に54基も原発を作ってしまった。

◆これから広島、長崎と同じことが起こる

今度の事故で、福島の原発が具合が悪くなりましたということで、こんな大きな被害になる。もし日本海側にたくさんある原発の一つが事故を起こしたらどうなるか。人間は絶えずエラーをしますね。誰がやったってどこかで小さなエラーをしょっちゅう起こしている。絶対に間違えることなく、50年間自分の工場を動かし続けるなんてことはできない。工場ならお釈迦(不良品)が出来るだけで済むことがあるが、原発の場合は、チェルノブイリと同じように、一つ間違うと大変なことになる。たくさんの人間を殺すような被害になってしまう。放射線問題は、こういうことになるのです。

福島で、今、下痢したり鼻血が出て困ったといった子どもたちが、あと10年、20年経つとどういうことになるか。多くの人はそんなことは考えずに、もうじき終わるだろうと思っていますが、私は広島・長崎の被爆者がたどった道を66年間見てきているからようく知っている。

今、政府や専門家という人が何と言おうと、被曝した放射線の性質が同じなのだから、福島の場合は広島・長崎と別の状態が起こって、「病気なんか起きないよ」とは言えない。そんなことは保証できない。同じものを受けているのです。だから、私は密かに毎日心配しています。

でも、いくら心配しても、「こうだよ」「ああだよ」と言っても、見たことのない人にはわからない。「放射線はどういうものですか」と言われて、「はい」と言って答えられる人は一人もいないと思う。

お医者さんに行って、レントゲンを取ると肺の中が見えるとか、骨が折れているのが見えるというのはわかると思うが、「何がどうなってそうなるのですか」と聞かれたら、何もわからない。放射線は目に見えない、色もない、匂いもない、触っても感じない。だから、人間にとってはまったくわからない。


今も空気中に放射線の粒が来ています。写真を撮ったら見えるというならね、皆慎重になったりするけれども、放射線は見えない。

放射線というのは小さな粒です。大きさは、1ミリメートルの数十億分の1。非常に小さな粒です。

放射線の被害には二つある。一つは、放射性物質が自分の体の外にあって、そこから核分裂を起こしたガンマ線とか中性子線とかが飛んできて体がやられる。これを外部被曝といいます。

もう一つは、今、福島で皆が苦しんでいる、放射性物質の粒が呼吸や水を飲んだ時や食べ物を食べた時に一緒に体に入ることによる被害です。内部被曝です。体の中に放射能の小さな粒が入り、はじめは血液の中に入って回っているけれども、体の中のどこかに着く。胃袋の壁とか、肝臓の中とか、腎臓とか、心臓の筋肉とか、あるいは脳の細胞にくっつく。どこに着くかは、むこうは自由ですから、回っていって好きな所にポッと止まっちゃう。そこから体がゆっくりと壊されていく。今日放射線が入ったからといって、すぐに影響が出るわけでもない。ひと月ふた月は何も出ない。何十年経っても何も出ない。ところが、4~50年経ったら変な病気が出てきた。お医者さんに見てもらったが原因はわからない。そういうのが放射線の病気の特徴なのです。そういうことがこれから起こる。

◆抹殺された広島、長崎の被爆者

私は、広島に行って自分も原爆にやられたのですけれど、原爆だということは知らないでいた。判ったのは1週間くらい経ってからです。呉にあった日本海軍の基地が「アメリカの放送によれば、アメリカが使ったのは原爆だった」という放送をして、それでやっと分かった。しかし、原爆だと聞いても、原爆というものはどういうものなのか全然知らない。一つの街が全部壊れちゃったというのは分かる。毎日患者を見ていて、全部やけどで、毎日毎日どんどん死んでいくのを見て、こんなことが起こるんだ、大変なことだというは分かる。しかし、なぜこういうふうになるのか、これがどういうことなのか、それはずっとわからなかった。体に入った放射線が人間をこんなにも悲惨な状態にするということが、30年間わからないでいました。30年経っても、日本の医者の誰に聞いても説明してくれませんでした。日本の医者は誰もわからなかった。


それで、たまたまアメリカに行くことになって、知ることになるのです。

私は医者として、「わからない患者がいっぱいいるので、世界中の専門医を集めて日本でシンポジウムを開いて、日本の医者にこういう場合どういう治療をしたらよいか教えて欲しい」と国連に嘆願に行った。

ところが、「あんたの言うことは受け取れません」と国連に言われた。一緒に行った他の人達は、核実験反対を訴えに行ったのですが、そっちの嘆願は受け取って国連で討議してもらいますという返事だったのに、僕が言った「病気を治す方法を教えてくれ」という嘆願はダメだった。

「なんでですか」と聞いたら、「あなたは知らないだろうが、僕が行ったその7年前の1968年(原爆が落ちて24年目)に、アメリカ政府と日本政府とが広島の被害の医学的被害について報告を出した。その報告を国連はもらっている。その中には、『もう日本の国内に原子爆弾が原因と考えられる病人は一人もいない』と書かれている」と言うのです。
被害者がもう皆死んじゃったので、もう区切りができているという報告が出ているというのです。

僕は、被爆者からの相談をあちこちから受けていて、みんなに「私にもわかりません、治療法がわかりません」そんなことを答えていたのです。そんなに苦しんでいる人が日本中にまだ何十人といた。ところが、「原爆が原因の病人は一人もいない」という嘘を、日本政府がアメリカ政府と一緒になってついていた。

それくらい、アメリカはあの原爆で起きる人間の被害を世界の人に知られるのを非常に嫌がった。ずっと隠していた。

被爆者は自分の体に起こった被害を、たとえ親戚であろうとしゃべっていはいけない。医者・学者は、被爆者に頼まれて診察をするのはよいが、その結果を詳しく書いて、皆と一緒に研究したり、論文に書いたり、学会で放射線の被害を論議するのは一切まかりならぬ。これは全部アメリカの軍の機密だ、これを犯したものは厳罰に処す。そういうお触れをアメリカ軍は占領と同時に出している。

だから、被爆者は自分の体が具合悪いとお医者さんに行くでしょう。しかし「実は先生、私、広島で…」と言ってはいけない。うっかり、誰も見ていないからと、それ言わないと病気がわかってもらえないからということで内緒で言うと、先生のほうが「あ、それは私に言わないでください。私が聞いたことが分かると私がやられる」。これが、被爆者が辿った運命なのです。

◆内部被曝の脅威を隠蔽する政府

被爆者が書いた書物がいっぱい出てますから、皆さんもお読みになることもあると思うが、当日、ピカッと光って、暑い熱が来て、やけどして家が壊れた、そういうことは書いてある。それから後、だんだんと日が経つにつれて、訳のわからない病気が出てきて、自分は一生一人前に働くことができなくなった。お医者さんに行ってもどこも悪くないと言われる。自分の体が原爆でこうなったということを社会の誰にも認めてもらえないで、親戚や家族からは「怠け者」「ぶらぶらして働かない」と言われ、だから「ぶらぶら病」と名付けられて、社会から抹殺されてしまったのです。

そういう苦しみを被爆者は味わってきた。「自分がこんなになったのは、俺のせいじゃないのだ。アメリカのピカを浴びたからこうなったのだ。わかってください」と言っても、誰もわかってくれない。

そういう苦しい人間が生み出されていくのが、内部被曝なのです。

広島・長崎の内部被曝はどうやって起こったのか。

その人達は、その日は爆心地にはいなかった。落ちた日から数日以内に爆心地に戻ってきて、自分の家族に行方不明なのがいるからと、毎日焼跡を探して歩きまわった。舞い上がったきのこ雲は、重みがあり、ゆっくりゆっくり降ってくる。その人達は、それを吸い込んだ。それから、当時、街に人が作っていた家庭菜園のようなところにあったキュウリだとかトマトだとかを拾って食べた。雨が降ってくると雨がキュウリやトマトにくっつき、放射能がくっついたそれを食べる。これが内部被曝となった。

ところが、内部被曝があるということすらアメリカは否定した。「日本の医者が、最近、原爆の被害を受けた患者を見て、体の中に入った放射線が原因で(これまでの)医学ではわからない病気が出ているということをいろいろ言うけれども、それは医者のデマだ、放射線というものは人間の体の中に入った時は非常に微量だから人間の体に被害は起こさない。無害である」―そういうことをアメリカは世界中に公表した。だから、よその国の医者も学者も、原爆を作ったアメリカが言うのだから間違いないと皆信じた。

日本政府は、アメリカの言いなりですから、誰が総理大臣になろうと、アメリカがご機嫌を悪くすることは一言も言わない。だから放射線についても「何もありません」と言うだけ。

僕の患者で、当時20歳の兵隊さんで被曝した人は今86歳です。60歳やそこらで大臣になっている日本の政治家は、自分が産まれる前に起こったことだから何も知らない。だから、上から金もらって「何もありません」と言っているだけ。

皆さんは、今福島にいません。おそらく、原発の影響は全くないという思いで、この集会にいらしたのではないでしょうか?しかし、日本のどこの街でも、原発から出た放射線と全く関係ないという街は日本中に一つもない。東京に一番近い原発は東海村ですが、あれは毎日放射線を漏らしています。漏らさないと電気は起こせないのです。もともと、そういうものです。


ところが、それじゃ商売できないから、原発を作った世界中の連中がアメリカに集まって、今年はどこまで漏らしたらよいか、漏らしても良いという放射線の量を決めます。それを決めたら、そこまでは漏らす。ごく僅かな量だというけれども、そもそも彼らは体の中に入った内部被曝は量としてカウントしない。ここから下の放射線の量だったら大丈夫というのが、原発を作った連中の意見ですが、そもそも、内部被曝は被曝量としてはカウントしません。内部被曝は関係ないと言うのが、世界中の医学界の常識になっているのです。

◆「低線量なら大丈夫」は成り立たない

しかし、「ちょっと入ったぐらいなら大丈夫」というのは成り立たないのです。

入ったら、これは放射線に「お前にはもう印つけたから、一生涯俺の影響が出るかもしれないよ」ということを言われちゃったことになる。出るか出ないかは人によって違う。広島・長崎で今生き残っている人も、人によって病気が出たり、癌になったりするが、みんなそれぞれ違う


皆さんは、親から放射線に対する免疫をもらって生まれてきている。健康を守って上手に生きた人は免疫力が落ちてないから、放射線が入っても病気はでない。ところが、さんざん良くない生活をして、不規則な生活をして、せっかくもらった免疫力がだんだんやせ細ってほとんどなくなったという人は、吸い込んだ放射性物質が元で、病気が出る可能性がある。

どうして原発から漏れて出てくるのか。原発を見学に行くとわかります。格納容器はものすごい厳重な作り方をしてあって、あそこから放射線が漏れることは通常ない。

ところが、コンクリートの建物は、パイプでつながっています。パイプの中は何千度という高熱の熱湯が流れていて、そこに測れないくらい高い線量の放射能が混じっている。しかし、人類が今まで経験したことのない高い線量の放射能が混じった熱湯に耐えられる金属がない。だから、既存の鉄パイプで持って配管を作っている。当然、半年でだめになるか、1年でだめになるかします。僕は詳しく知りませんが、かなり早い時期にダメになります。それで、金属で硬いと思っているけれど、あの配管に隙間が開いてそこから放射能が漏れる。その漏らす量を国際的にここまでだよと決めているだけの話です。

だからもう皆さんは、たとえ埼玉県から他県にだたことがないといっても、たくさんの原発から出ている、漏らしてもいいと言われている放射能にどこかでぶつかって、吸い込んだり、飲み込んだり、食べたりして、すでにもう体の中に入っちゃっている。幸いに今まで発病しなかっただけなのです。

死ぬ間際になってから、年をとってからがんが出る、病気が出るということかもしれない。ないとは言えない。それが、日本の放射線の実態なのです。

だから、福島第一原発を何とかすればあとは大丈夫、なんて思っていてはいけない。今幸い休んでいる原発が多いから、今は出てないかもしれないが、再稼働して発電が始まったら、また放射能が漏れでてくる。そういうものだということを、まずしっかり知識として持っていて下さい。

 これから大事なことは、原発はもうやめる。どんな理由があろうとこれは許されない。核兵器も原発もやめる。

最初の被害者は皆子どもたちです。子どもの体が最初に放射線にやられる。どういうわけでそうなるか。

◆私の被爆体験

私も広島で本当は死ぬはずだった。私の勤務していた広島陸軍病院にいつもの通り朝の8時15分にいたら、原爆に巻き込まれてあの朝死んでいた。生き残ったのはたまたまの偶然です。広島市内から6キロ離れた戸坂村という村に、偶然1件だけ私が知っている農家があった。普段は付き合いもない。いっぺん、そこの家の6歳の男の子が4歳の時に心臓弁膜症を持っていて、村が無医村だった。

私は陸軍病院の軍医で、戸坂村の隣の村の健康診断をときどき引き受けていました。その村の女学生の健康診断に行っていた時に、当時の若い軍医は皆行きたがるんです、聴診がやりたくて。私がちょっと健康診断の当番になって行っていたら、じいさんが来て「村の医者が戦地に行っていなくなったので、うちの孫が困ったことに苦しがっているから見てくれ」と言われたのです。

私は自分の仕事を終えていて他に任務がないから、診てやっても困らない。ただ、お金を取ると法律違反になるから、お金をとらないで診察したのです。心臓弁膜症でした。僕の常識では手術しなければ治らない。ところが、広島県内では当時心臓の手術はできないし、じいさんも手術するお金もないということで、治療はできない。そういう子どもを診たことがありました。

8月5日になって、その子がまた心臓の発作を起こした。そのじいさんは、お医者さんがいないものだから、毎日僕がどこにいるか、陸軍病院にいるか出張先にいるか調べていて、「孫を診てくれ」と、その夜迎えに来たんです。それでじいさんの自転車の後ろに乗っけられて連れられていったものですから、落ちちゃうんです。3回落っこちちゃった。それでじいさんは、僕を自転車の荷台に乗せて、じいさんと一緒に帯で縛りつけて、それで連れていかれたから助かったんです。笑い話ですが。

診察を終えて、ちょっと横になったら寝てしまって、本当は7時に帰る予定だったのが、寝坊してね、8時に目を覚ましました。飛び起きると、病院はもう始まっている。間に合わない。

心臓の病気の子どもは寝ている。じいさんが野良仕事に出かけると、僕しかいなくなる、誰も家族もいないから泣き出す。泣くとまた発作が起きる。だから、駐車して夕方まで寝かしておこうと思ってね。子どもの手をとって注射器に液を吸い込み、一度空に針を向けて、空気が中に入ったことを見て、空気をずっと押し出す。それをやっていたら、広島の空にB29が一機入ってきたのが見えた。

これはまずいな、アメリカの飛行機が入ってきたな、でも、どうせ帰るだろうと思って、注射器から空気を出す作業をやった瞬間、ピカッと来た!

広島の人は皆、あの爆弾のことを「ピカドン」と言う。最初、ピカッと光る。それと同時に熱かった。夏だから半袖で、この腕が出ているでしょう。そこがね、焚き火にあたって誰か悪いやつがいたずらして、腰か背中をポンと押されて、たたらを踏んで炎に近づきかろうじて止まって、「熱い!」と感じる。あの時の熱さです。ものすごく熱い。痛いのと熱いのと一緒だから何のことかわからない。飛行機がなにかやったなと思ったがわからない。注射器はもうどこかに行っちゃった。まず目を覆って畳に伏せた。軍人だから訓練を受けていて、何かあったら立っているのは危ないから、体を低くして寝転がるのが一番いい。しばらくジッとしていたら、火が出るでもない、何にもない。おかしいと思ってね。広島の光が来た方を手の指の間から、こうやって見たんです。

そしたらキノコ雲が出来ているんです。こんなのを見ましたって話ができる人はいない。真下にいた人はもうその時は死んでいる。遠くでそれを見ていたという人が何人いるかと思うのだけど。

終戦になってから、広島のNHKが、生き残った人に、あの時見たものを絵に描いてくれと募集したんです。僕のその中で専任ぐらいが欠いたものを皆見ました。その中で一人だけ、僕の見たのと同じキノコ雲ができるのをずっと連続で描いた人が一人いた。
青空に突然、真っ赤なものすごく大きい火の輪がバーっとできた。その火の輪の中の青空に雲ができて、ドッドッドッと見る間に拡がって、最初の火の輪に内側からくっついて行き、とたんに火の球になった。

僕は戦後、アメリカの核実験をやった時の映画を何本か見て、火の球ができるのを映画でも見ましたが、それと同じです。本で読むと直径が700メートルだと言います。わずか僕のいる所から7キロの所に、直径700メートルの輪ができた。僕から見ると、ちょっと大きめの夕日の…沈む太陽と同じに見える。だから、生まれて初めて目の前に2つ目の太陽ができて、びっくりしてね。本当、訳がわからなかった。それで見とれていたんです。

グッグッと(空を)かけ登っていって「きのこ雲」になっていく。広島に向かって小さな山があって、広島の街は見えない。街を通り越した向こうに広島湾が見える。ちょうど、広島からこっち側の所に長い丘みたいな山がある。火柱と雲の付け根のところに真っ黒な雲ダーッとできて、できたと思ったら、その小さな山を乗り越えて、間に太田川が流れる大きな谷があって、そこにダーッと拡がったんだよ。拡がったと思ったら、ダーッと渦を巻きながら、こっちに押し寄せてくる。何だかわからないけれども、砂粒が落ちてくる。つむじ風ですよね。

「来る!来る!来る!」と思っていたら、もう村の小高い山の上にガーッと来て、足元にあった小学校の屋根瓦がバーっと舞い上がって、アーッと思っていたらもう村を通り越して、私のいた農家の所にきた。私のいた農家は村の少し高い丘の上にあって、谷の方からは真正面でした。縁側に僕は座っていたんですが、黄色の煙みたいのがバッときて、あっと思ったら、体が吹き上げられた。そして農家の家の中を飛ばされたのです。ちょうど、10畳間と12畳間とを飛ばされた。後で計算したら5メートル位飛んだ。飛んでいる最中、目の上に天井が見える。ようく覚えていますよ。たった一秒です、飛んでいる間は。と思ったら、天井が口を開いて、上の壁にドシンとぶつけられた。上の屋根が落ちてくる。藁葺き屋根の下に泥が乗っていて、泥に藁をさしてある、その泥がもろに落ちてくる。叩きつけられてから、もうもうとした泥の中を動き出し、やっと表に出た。それが僕の被爆体験。

◆火の海の広島に立って

だから、やけどもしてない。怪我もしてない。あちこちぶつけたから、傷みたいのはできている。

表に出て、泥の中から布団と一緒に子どもを引っ張り出して、泥まみれの中で子どもを見ようと、聴診器を当てようと思ったがないんですよ。それで、自分の耳を子どもの胸に当ててみたけど、何も聞こえない。おかしいなと思ったら、泥が耳にいっぱい詰まっていた。割りに冷静でした。それで、泥をとって耳で心音を聞いたら、子どもは大丈夫だった。それを確認したら、キノコ雲の下に何が起こっているのか、とにかくいかなければいけないと思った。じいさんは畑に行っているので、「赤ん坊はここにいるよう!大丈夫だよ!俺は病院に行かなければならないから、自転車借りるよ!」と大声で叫んでね。

村の中は大騒ぎです。細かい資料は持っていませんが、戸坂村は人口1400人、500世帯の小さな村です。後で記録を見たら、10何軒か家が潰れて、村全体で12人村民が死んでいます。

村の中はどこもまともな家はない。家にいた人たちはびっくりして、皆表に出てきましたが、何が起こったかもわからない。

その中を、自転車で広島市内まで走ったんです。途中で、初めて人にあった時、びっくりしました。人間とは思えない。初めて見たその人は、真っ黒けでした。夏だから白いものを着ているのに、やけどをして血だらけの所に土埃がつくから真っ黒。コールタールを塗ったみたい。それにボロがぶら下がっている。私は、はじめはボロを着ていると思っていたが、ばったりとその人が倒れ、近づいてみたらボロじゃない。実は素っ裸で、本人の生皮が剥がれていただけでした。瞬間の熱で、上皮がポロッととれちゃう。そういう人にぶつかって、目の前でバッタリ倒れて死んじゃうのを見た。だから、こういうのが出てくるようじゃ、キノコ雲の下は、雲じゃなくて火柱だ。広島中が火だ。そんな所に今さら行ったって何が出来るのか…

ここから先が広島市というところに川があってね。川をわたって岸に這い登ろうとすると、上の方から、今焼けたばかりの裸の人間がドバーッと落ちてくる。死体が重なって落ちてくる。私のすぐそばにも死体が落ちてくる。落ちて、川の水の中を流れて行ってしまう死体もある。死体がどんどん重なっていく。

その時私は、医師として何をすればよいかわからなかった。「自分は医者だ。こういう人達を助けなければならない」。自分は川の中に立っていた。「薬も何もない。誰も手助けしてくれない。何もできない」。それで考えたのです。「ここから引き返して、この人達は皆自分の村を通るから、あそこで村の人の力を借りながら、何か医者らしいことをできればやるべきだ」とやっと思いつく。でも、すぐ後ろを見ると目の前で死ぬ人達がいる。この人達をほったらかして行ってはいけないという気がどこかにある。川の中に立って、しばらく、そこにうろうろしていて、「ここにいても何もならない。戻るしか手がない」と、やっと決心して帰ることにしました。

◆目の当たりにした被曝の症状

道を歩けない。棒なんかがいっぱい落ちているから。それに、途中でつかまっちゃうんです。まともな人間を見たら「助けてください」と皆に言われる。「私はダメです。向こうに行くんです」とは言えない。

村に入って、これがおったまげたのは村中の道路。道路に、皆寝ているのです。家は壊滅している。あるとすれば、小学校だけ。小学校の校庭には千人くらいが寝っ転がっている。そんな中へ医者が一人で戻っても、聴診器もない。何もできない。でも、軍人だから指揮しないといけないので、「もうじきこの村にこういう人が何万人と逃げてくる。だから、村の人たちは気の毒だけど、全村をあげて、この逃げてくる人達を看病しなければいけない。まず、むすびを作って今晩飯を食わせなくてはいけない。お米は軍隊が金払うから、皆出してくれ。むすびを作ってくれ」と言ったのです。でも、これは大失敗でした。むすびを作っても、食えるような奴は誰もいない。ここ(口)をやられている。それで、どろどろのお粥にして、バケツにお粥を入れて、女の子に杓子(しゃくし)を持たせてね。「寝ているところを歩いて行って、上を向いて寝ている奴の口に流しこんでくれ」と指示した。でも、最初怖がってね。顔を見れないんだよ、焼けているから。「ダメだ。横向いているからこぼれてしまう。まともに入れるんだ」なんて、じいさんが女の子を怒ってね。

というようなことで、最初の3日間、やけどばっかり。ほとんど皆死んだ。記録で見ると
最初の晩に6700人村に入った。翌日は1万2千人。その翌日が1万。9日の朝が2万9千人。それを診た医者が4人。これが想像できますか。5万7千人という大群ですよ。皆、道路に寝ている。4人の医者がそこに突っ立って何ができますか。百人だってできないですよ。それが直後の状況です。

というわけで、ここからわかるのが、さっき言った「放射能(外部被曝)」の急性症状です。これは今の教科書にも出ている。

高熱が出る。いたるところから出血がする。口の中が腐る。それから、やけどしていないきれいな肌に紫色の斑点が出てくる。これは医者の言葉で言うと、紫斑(しはん)と言う。こんなものが出る病気は放射線以外は一つだけです。血液の病気で入院した重症者が死ぬ間際に紫斑が出る例があり、教科書で書いてあるのはそれだけです。

広島では、あのときは皆そうなった。後で考えたら、血液がやられていたのです。血小板というのがなくなって、全身の粘膜から血が溢れ出る。血を吐きながら死んでいった。
それから、「頭の毛が触ると取れる」という脱毛。原爆の爆弾に一番近かったのは頭ですから、ここに最初に強い放射線があたった。それで毛根細胞という非常に命の強い、毎日どんどん分裂をして毛が伸びる勢いのよい細胞が最初にやられた。ピカッと光って「やられた」と言う時、皆、頭の毛の毛根細胞が全部即死した。だから毛に触れると、毛穴に突っ立っているだけでは下は生えていないから、スッと抜ける。こういう状況の脱毛を診たのは世界中で、広島のその時にいた医者だけです。

◆福島のお母さんから相談で鳴り止まない電話

赤ん坊の細胞というのは、ちいちゃな卵から大人までどんどん分裂して増える。そういう細胞が一番放射線に弱い。だからおとなより子どものほうが先にやられる。

3.11から7週間位経った5月4日に、私の家に福島のお母さんという人から「子どもの下痢が止まらない。大丈夫か」という電話がかかってきた。それが最初で、後はもう家の電話は鳴りっぱなし。私の書いた本の奥付に書いてある出版社に電話して、「この先生の電話番号を教えてくれ」と言ってきた。出版社が困って、ある程度の数の電話がかかってきてから、「たくさん電話が来るんだが、教えていいか」と聞いてきたので、「ああ、どんどん教えてくれていいよ」と言ったら、来るわ来るわ…。女房はテンテコマイで、もう電話止まらないの。それくらい、お母さん方は心配なんだ。

最初は下痢。その次に起こってくるのが口内炎。口の中が痛くて飲み込めない。それで医者に行くと「大したことない」と言われ、薬もらって帰る。そしたら今度は鼻血が出る。医者でも、血っていうのは怖いです。ましてや、素人の人が大事な子どもが鼻血が出て止まらなくなると、それは心配になる。それで、僕の本を読んで「放射線で鼻血が出る」と書いてあるので、「ああ、これは放射線のせいだ」と思って、心配になって、電話をよこした。

これが放射線の内部被曝の初期症状です。広島でもありました。これは軽いんです。だいたい3週間で皆治っちゃう。電話は埼玉県からもいっぱいきました。東京が多かった。3月15日の日に、水素爆発で屋根が飛んだでしょう。あの時が一番たくさん出たのです。あれが、関東平野全部に舞ったんです。

そういうことで、皆さんがこれからしなければならないことは、直接福島の人にどういう援助をするかということはさておいて、一番大事なことは「核」。今、世の中で「核」という字が新聞に出ない日はないでしょう。チェルノブイリの事故以後、世界中の人が原発の爆発の怖さを知っている。同じことが起こったのです。広島・長崎・チェルノブイリの後、そこの被爆者がどういうふうになっているか。いまだに病気がどんどん出ている。もう25年目ですね(チェルノブイリ事故は1986年4月26日)。

だから日本も、あと数ヶ月すれば収まるということはないのです。必ず何年経っても、あそこだけか、関東全部になるか、まだ出しっ放しですから、これから先、関西から九州までみんな汚染するかもしれない。だから、日本人の中に、下手をすると、慢性の放射能の影響があと何十年も出てくるかもしれない。出てくるというと、現地の人は心配する。でも可能性はないとは言えない。

◆今やらなければならないのは原発を止めること

そういう中で、皆さんがすることは何か。まず、どうしてもしなければいけないことは、原発を止めちゃうことです。「遠くに逃げろ」とかね、「汚染されてないものを選んで食べろ」なんてことを、くだらないことを言って、出来る人が何人いますか。

今ここに大体300人くらいの人がいますが…。皆さん、今、臨時ニュースで、「埼玉県に今たくさん放射能が降っていますから、とてもダメですから、皆さん家に帰ったら相談して、荷物をまとめて大阪から向こうへ逃げてください」と、仮に臨時ニュースで言ったら、「はいわかりました」と、今晩相談して明日の朝どこかに行っちゃえる人が何人いますか。仕事も捨て、ご亭主は職場も捨て、皆さんだって働いているところを離れて、明日からパッと遠くに行ける人が何人いますか。出来っこないことを、あの専門家というのは、平気で言ってるんです。これは要するに、「できない人は残念ですけど死んでください」ということと同じなんです。できない人にとっては、「我々はどうしたらよいのですか」というのが聞きたい。そんなことには一言も答えない。これは親切なようで残酷なことです。本当に真剣に困って、どうしようかという時に、出来もしないことを言って、「はい、さよなら」はだめ。

私は、経験しているから一つだけ教える。私は、生き残った被爆者に皆に言ったのです。直後の10年くらいは別ですが、20年、30年経った頃、私は日本の被爆者の全体が集まっている団体の相談所の理事長をやっていたので、日本中の被爆者に責任をもって「あんた方は原爆に負けないでふんばって長生きしろ。長生きの仕方を教える。俺はこれしか無いと思っている」とパンフレットに書いて、25年から30年間、毎年毎月それを出した。。持っている放射線に対する抵抗力を減らさないこと。歳とるにしたがって、だんだん減っていくから、それを大事に大事に長く持たせること。

それは、人類がそういうものを4000万年かけて作っているものだ。生まれたばかりの人間は、放射線と紫外線でどんどん死んでいった。それでも何万年、何百万年生きる間に抵抗力をつけて免疫を作ってきた。それのときは、人間は光も熱も持っていない。太陽だけだった。だから、太陽と一緒に起きて太陽と一緒に寝る、という生活をずっとやってきた。

夜遅くまで電気つけて働いたり遊んだりというのは、せいぜいこの50年くらいだ。そうなったから、まだ1000年も経っていない。今の人間はとんでもない悪いことをしている。皆さんの中にいるかどうか知らないけど、夜遅くまで深夜テレビで怪しげなものを見て、朝は起きられない。ギリギリまで寝ていて、目覚ましを止めて、跳ね起きて、ろくな朝飯食わないで、すっ飛んでいく。これが一番ダメなのです。

昔の人は太陽と一緒に起きて働くから、皆朝は時間かけてたっぷり食べた。そうでないと働けない。おばあちゃんは昔から、理屈は知らないけどいいことを言った「ゴハンは30回噛んで食べなさい」と。これは、理由がある。お米という物質は、唾の中にあるジアスターゼという酵素が加わらないと腸へ行って腸の細胞が栄養として吸収することができない。ジアスターゼが加わって初めて、お米の粒がかりに生飲みしても、ちゃんと栄養として摂れる。それ以外は、せっかく腸まで行っても、全部うんちになって出て行ってしまう。

そういう時間を持って30回噛んで食べるには早起きしないとできない。だから、ばあさんは、「早起き早寝」と「30回噛め」を、日本人の米食の国民に伝えてきた。皆さんは、「そんな30回も噛んでられるかよ」「忙しいからやってられないよ」という生活になっちゃった。免疫は、免疫を作ってきた時と同じ状態で生活をして保つしか無い。そうしないと壊れちゃう。だから、明日から踏ん張って、少なくとも今までよりは30分早く起きて、ゆっくり時間を作って朝ご飯をたっぷり食べる。そうしないと免疫を保つことはできない。

◆自分の命の主人公になれる社会に変える

日本人は、人間として生まれてきて「自分の命の主人公」になっていない。「勤め先に言われたからしょうがない」「行かなければ飛ばされる」と言って、職場の言うとおりになる。「夜中の12時まで働け」みたいなことを押し付けられた時に、「自分の命の主人公」なら、「それはダメです。私の命のほうが大事です」と言える人間でなければ本当はダメなんです。言わなきゃいけないのに言えない。要するに、自分の命よりもこっち(金)の方が大事、という世の中に生かされている。これを変えなければダメ。

それには、政府も変える。大企業も変える。それから、中小企業が今の働き方以外でちゃんとまともな商売がしていけるように、世の中を変える。そうしなければ、本当は皆さんの命は守れない。

医者にかかろうが、薬を飲もうが、ダメです。皆さん。家に帰るとサプリメントとか訳のわからん薬を飲んで、なんとなく命が伸びそうだという幻想を持っている。あんなの糞の役にも立たない。やっぱり、まともに食事をとって、まともな労働をして、体に一番必要なそれぞれの時間を自分がコントロールして生きられる、という世の中を作らないとダメです。

お金に縛られ、勤め先の監督に縛られ、社長の言うことを聞かないとクビになる、そういうおかしげな日本を変えなければダメ。こっちはほったらかしておいて、つまらない食い方をして、誤魔化して、それを何十年も続けたらどういうことになるか。あなた方の体はぼろぼろだよ。

それが、あのサプリメントが何千円だか何万円だか知らないが、そんなもので長生きできるなんて嘘っぱちだ。そんなのができるなら、今まで人類が苦労して来なかった。やっぱり、生物として世の中で決められた法則がある。

皆さん。いくら悔しがっても、生きていたら六つしかすることはない。寝ること。食べること。トイレにいくこと、これは大小。働くこと。あとは遊ぶこと。最後はセックス。セックスは、90歳、80歳になるとまだ旺盛だという人は少ないから大したことではないですが、若い人には大変なこと。これらは皆、犯してはいけないという法則が決まっています。生きている限り、健康を損なわないで長生きをするためには、食べるにはこうしなさい、うんちとおしっこはこうしなさい、夜の寝方はこうしなさい、と決まっている。本当は親が教えてくれるんだけど、親も知らないから見よう見まねで、誰も教えてくれない。本当は医者が教えなければいけないのだけれど、医者はそんなことを教えて皆が病気にならなくなって、医者にかからなくなると困るから教えない。病気になるのを待っている。どう思うと思わないとに関わらず、今の世の中はそのようになっている。

こんな世の中にしたのは、せいぜいここ百年ぐらいです。百年くらいの間に大事なことを皆忘れて、間違ったことばっかりやってきた。ここから直す。余計なもの、とりわけ核兵器と原発は全部やめさせる。あんなものは必要がない。悪いことだけだ。そう思って、明日から頑張ってください。

◆一番の敵は放射線の内部被曝

一番の敵は、放射線の内部被曝です。これは、誰も診て教えてくれる人がいない。医者も「あんた具合悪いよ」と言ってくれません。

日本中の医者は、アメリカと日本政府の影響で、誰も被爆者に暖かい手を差し伸べなかった。そのために、寄り添ってくれる医者もいない社会で被爆者は野垂れ死にしてきた。
下手をすると、福島の子どもも親も同じ状態になります。今の若い医者は何も知らない。病院で診ても、どこもひっからないから「あんた何でもないよ」と言うに決まっている。仮に誰か内部被曝に明るい人が「これはどうも原発の放射線のせいだ」と一言言えば、その医者は袋叩きにあう。「お前、そんなに言うなら証拠出してみろ」と言われて、証拠の出しようがない。何にもないという側も、「あんた大丈夫だというなら証拠出してくれ」と言われても出せない。悪いって言う奴も、そうでないって言う奴も、どっちも証明できないのが放射能なのです。

そうである限り、そんな危険なものが漏れでてきては困るから、原発は止める。これしかない。我々が長生きするためには止めるしかない。そういう意味では、今日の集会は皆さんにとって、画期的な集会です。やってはいけないこと、やらなければならないことは、これしかない、これだけは憶えて帰ってください。

放射線に負けないで生きていく方法はひとつしかない。

皆さんの祖先が放射線への抵抗力を長い間かけて作ってきた。その時の先祖の生き方を、少なくとも太陽との関係で言えば太陽と一緒に寝起きして、その条件の中で作ってきた免疫を上手にもたせる。少なくとも。私が教えた何万人という被爆者は、それを守って頑張ってきて、今日も長生きしている人がまだ21万人いる。21万人の中には若い人もいますが、年寄りも多い。だから、私はそういう経験の上で、「こうやれば大丈夫」ということを一つ持っていて、相談するお母さんに話をしているわけ。別に作りごとを言っているわけではない。経験して、被爆者がみんなで力をあわせて作り出した知恵なのです。今でもこれしかないから、これでやりなさいと話している。

皆さんは、いろんな集会やデモに出られて、運動を少しはしてこられた方だ。明日から、その皆さんの行動をもっと意識的にして、こういうためにこの運動をするのだということがもっと明確になって、周りの人に影響を与えながら、運動の輪を大きくして広げていくことが非常に大事だと思います。

明日からの健闘をい願いして、話を終わります。長い間ありがとうございます。

【質疑応答】
◆内部被曝の症状と治療法
質問)内部の被曝の症状には、下痢、口内炎というのが話しされたが、それ以外に、どのようなものがあって、その治療法は何がありますか?

治療法から言えば、治療法は何もありません。医学の教科書にもありません。人類が経験したことのない症状ですから、直し方はわかりません。症状は広島・長崎にもあった、ごく初期に現れる症状。それは、その後悪化することはなくて、ほとんど治ってしまいます。我々が手こずったのは、半年あるいは2~3年後位に始まって、10年も続く「ぶらぶら病」という症状です。

広島・長崎だけでなく、アメリカでは兵隊さんが核実験場の周りの塹壕の中に潜んでいて、今度の爆弾は爆発から20分後戦闘行動がどういうふうに出来るかを実験した。その兵隊が全部被曝したのですが、その兵隊に起こってきたのは、広島・長崎の被爆者が経験した慢性のぶらぶら病です。要するに、だるくて、寝てなければどうしようもない。とらえどころのない病気です。治療法は特にありませんでした。中には、そのまま衰弱が続いて、寝たり起きたりが寝てばっかりになり、最後は、医者が行って診たが原因不明でなくなっていった。

チェルノブイリの被爆者の中に、ぶらぶら病のようなものはなかったのかどうか、チェルノブイリを調べている友人に調べてもらいました。あそこは非常に広範囲で被曝していますから、いろんな所に政府が強制的に立ち退きをさせた。モスクワのような一番文化の高い所に避難したお金持ちの連中がたくさんいました。この人達は、体の調子が悪くなるので大病院に入りました。その人達のカルテを調べてもらいました。そしたら、疎開命令が出てから1年くらい経ってからのカルテの中に、関係のある病名がありました。「放射線疲れ」という、日本のぶらぶら病に当たるのがありました。「放射線で疲れた」と。チェルノブイリの患者の中にも、ぶらぶら病的な症状がたくさんあった。

一番悩んだのは、そのだるさをどうやって診たらよいか。診る医者の誰も「ダルい」というのは経験したことがない。ところが長く診ていると、どうも我々が経験した「ダルい」というのとは違うようだ。そういう症状が起こっている時に、たまたま見ることができた人が、私の場合一人いました。

今から40年前、遠いところの街の中小企業のご主人で、ずっと何でもなかったのに、被爆後20年位の昭和45年頃、私が夜間診療をしていた時に、この人が最後という時に入ってきた患者さんです。「相談がある」というので椅子に座ったのですね。私は最後だから早く帰りたいから、「手短に話してください」と言ったらこう話すんです。

私が相談したいのは、説明のつかないだるさです。私は広島で7歳の時に被爆して、その時はやけどを少しした程度で、何日も広島の街の中を、子どもが一人行方不明になっていたので子どもを探し回りました。それから1ヶ月経った頃に一度、こういうだるさがあったことがある。詳しいことはよく覚えてないけれども、ともかく今まで経験したことのないだるさだった。それきり忘れていた。自分は工場を持っていて、毎朝食事を済ませると全ての工場を見てまわることをやっていた。するとあの日、ある工場に行った瞬間にすごいだるさが襲ってきて、工場を回ることができなくなった。その日はなんとか治って、家に帰ったら、また翌日もだるさが出てきて、結局寝ているより仕方なかった。その街の医者何人かに診てもらったら、どの医者も「何ともない」と言う。納得行かないので、一番大きな農協病院に行ったら、患者を診るのに堪能なそこの院長も、いろいろな検査をしたが、やっぱり「何ともない」と言う。「あんたは納得いかないだろうから、私が紹介状を書くから、東京に行って東大の有名な先生に診てもらえ」と言われ、じゃあそうしようということで、東京のホテルを取って東大の何とかという先生に診てもらって、診てもらったあと、検査がいろいろあるから3日待って何日に来いと言われ、その間、東京に泊まって退屈だから映画を見たりして過ごして。その時はだるさは軽かった。そして、来いという日に行ってみたら、検査の結果をひとつひとつ説明しながら、「あんたにはどこも悪い所がない」と言われた。「じゃあ困った。家に帰って説明しようがないから、なにか書いてくれ」と言ったら、「神経衰弱」―今のノイローゼですね―そう書いてくれた。

その帰りに、詳しく話を聞ける医者がいるというので、私のところに来た。こう言いました。

あんたの病気はまだ、世界中で病名がついていない。同じ病人がアメリカにもいる。ソ連にもいるだろう。大部分お医者は知らない。診れば皆、検査して「何も出ない」と言う。でも、私は広島の放射線の影響があると思う。これは、アメリカに行って放射線の病気を診ている医者と会って教わってきた。原因は向こうでも放射線の影響だという。アメリカの放射線は原発からも出る。原爆を作っている工場からも出る、原料のウラニウムを掘る鉱山の周りからもいっぱい出ている。これはアメリカでは、何とかという病名になっている。何が原因かといえば、放射性物質の小さな粒が外から当たるんではなくて、体の中に入った場合に起こってくる症状だ、と私は教わってきた。

でも、それを知っている医者は世界に何人もいないから、大部分の医者は知らない。

「どうしたらよいか」と言われたら、答えようがないんだ、本当は。ただ一つ、アメリカのその医者が患者に説明しているやり方を教わって来た。それは、人間として一般的に健康と言われている生活を努力して続けろ、ということだ。要するに、食事、仕事、睡眠、トイレ、すべて自分が習慣的に、自分の一番都合のよい時間にそれが行えるように、長い時間をかけて習慣を作る。それにしたがってトイレに行けば、しゃがんだだけでびっくりするほど大きな便がちゃんと出る。食事は決まった時間にきちんと摂る。睡眠も決まった時間が来たら、何をしていてもそのまま寝る。そういう生活を努力してやることが、一番発病させない。

あなたの場合は、今「ぶらぶら病」という「かったるい」という症状だが、中には診断のつかない不思議ないろんな病気が出てきて困る人がたくさんいる。病名も皆無いんだ。その人その人で皆違う。それが特徴だ。あなたが今、かったるいさに抵抗するには規則正しい生活。そして、意志を強固に持って生きる。今日はいいだろうということで、規則正しい生活を壊さない。そのことが一番大事だ。それしか無いと思う。と話したらね、その人が「先生ごめんなさいね」って、顎に肘をついてね。「先生、ごめん、かったるくて起きていられない」って。ありゃあ、そんなにだるいのかと思ったら、椅子から降りて床にあぐらをかいたんだ。「先生、もうこの時には、こうするしかないんだ」って。そして、横になって寝そべった。そういう姿勢になったのを見て、この人は伊達や酔狂でかったるいと言っているのではないんだ、と言うことがわかった。それぐらい、僕らの常識を超えた「かったるい」という発作が襲ってくる。喘息の発作と同じでね。いつ起こるかわからない。これが「ぶらぶら病」の典型的な症状です。

内部被曝の症状という時、代表的に私たち医者が苦しんだのが、この病気です。「ぶらぶらしてばかりいる」ということで家族が言い出した言葉が、「ぶらぶら病」という病名になっている。外国に行っても「ぶらぶら病」で通るほどになっている。

◆母乳を飲ませても大丈夫か

質問)妊婦の方からの質問です。妊娠中に注意すべき点は何ですか。また、子どもさんですとか、母乳を飲ませている赤ちゃんについて、注意すべき点は何か、という質問です。

これは経験がまだないのですね。ただ、常識的に言えることは、子どもですから、子どもが口で教えたってわかりっこないから、問題は親が手本になるような生活をして見せる。食事のとり方、時間…ね。そういうものを見せながら、親を見てわかるような、そういう心がけを強める以外に赤ん坊には手がない。何かしようとしてひっぱたいても、わかるものではない。放射線問題なんて、大人だってわかんないんだから。要するに、親が非常に規則正しい生活しているということを見せることが大事。

問題はおっぱいの問題。これをどうしたらよいかと何度も聞かれました。現に、千葉と茨城のお母さんがたのサークルがあって、政府の発表でおっぱいに放射能が出たということを聞いて、自分たちも仲間同士で相談して、おっぱいをみんなで調べたら何人かから政府の基準以上の放射能が出た。どうしたらよいかと聞かれた。それは飲ましてはいけないのはわかっていますからね。その上でどうしたらよいか、ということでした。
まず、赤ん坊を産んだ病院の先生にそのことを話して、どうしたらよか先生に相談しろ。おそらく、その先生もわからないから、うろうろして何かわからないことを言うかもしれない。それを問い詰めて、問い詰めて、先生がわからなかったら、どこかに調べてもらう。今の日本のあちこちの医者がこれしかないと考えていることを聞き出して、それに従っていく。私は今、赤ん坊を見ていないから、正確には答えられないが、それを飲ませて悪いことだけは確かだ。それをやってください、と話しました。

まだ、そういう話を聞いて、自分で心配になっているだけのお母さんは、おっぱいを絞って、検査してくれるところが県にどこかあるから、県ごとに違うから、保健所にでも教えてもらって、自分のおっぱいの中に放射能があるかないか調べてもらってください。なければ心配ないから飲ませればよい。もしあったら、どういうふうにしたらよいか、お世話になっている産科か婦人科の先生にきちっと聞いて、先生がわからなかったら仲間と相談して、例えば茨城県だったら、茨城県ではこうするという、きっと相談する所があるはずだから、やってください。そんなことしか、子どもについてはわかりません。

それから、食べ物の問題では、関東平野の玄米を食べても大丈夫かと聞かれました。こういうのはいろいろあるでしょうが、もし、その玄米が手元にあるなら、それをどこかにいって測ってもらって、ないということを確かめてから安心して食べたらいい。大部分のものは、もう皆体に入っちゃっているのだから、新しく少々入ったからって、もはや変わりはない。一番最初に私が言ったような生活をして、発病しないような戦いを自分でやる。食べるもの食べるもの―全てを測って、と―あまり神経質になっても、もう今となってはしょうがないと思う。

◆低線量被曝を実証したペトカウ効果

質問)「人間と環境への低レベル放射線の脅威」という先生が出された本の中に「ペトカウ効果」というのが書かれていますが、「ペトカウ効果」について私たちがわかるように簡単に説明をお願いします。

簡単に言うと、今まで内部被曝ということを知らなかった頃、医学界では、人間の体は細胞でできていて、この細胞が放射線当たってどこがやられるかというと、細胞の中をやられる。だから、細胞には細胞膜という非常に抵抗力のある膜があって、この細胞膜を放射線で破壊して中に影響を与えるには、「どれくらいの強さの放射線をどのくらいの時間を当てれば破れるか」という実験を、世界中でずっとやってきたのです。すると、これくらいの強さで1時間20分やったら破壊できたけど、他の人がやったらダメだったとか、決まった強さと時間がなかなか出てこない。

ところがペトカウという人は、弱い放射線をゆっくり時間を長くかけたらあっさり破壊ができちゃった、という実験に成功した。強い放射線でなんぼ頑張っても破壊できないのが、もう、こんなもんでと思うくらいの緩い放射線でゆっくり時間をかけたら、あっさり破れちゃった。そういう実験に成功した。つまり、今まではそこ(細胞)に医学的な障害を与えるには、強い力を与えれば被害も大きいというのが常識だった。ところが、この人は、少なければ少ないほどの放射線をゆっくり時間をかければ使う放射線の量はもっと小さく出来る、という関係を証明した。

これは、今までの医学の考え方の正反対。そういうものがもし原則としてあるのなら、今までの医学の考え方を全く変えなければならないくらいの大発見だった。ところが、これが本当だと言われると、内部被曝の問題の大発見だった。ところが、これが本当だと言われると、内部被曝の問題がはっきりしてくるので、アメリカは―この医者はカナダ人なんですが―「この医者はキチガイ(発言のまま)である。こいつの論文は一切外に出してはいけない」と大妨害をした。そのために、この人は勤めていたところも追われて、ずいぶん苦労したんです。本を出そうたって、どこも出してくれない。

ところが、この人は世界中の親しい友達に肉筆で手紙を出した。それがいくつかの医者のところから方々に広がって、「ペトカウ効果」という言葉ができた。放射線の低線量の説明にはこの理論を利用すると、今までの理論では説明のできないことが全部説明できる。そういうことが起こって、進んだ学者がこれを認めて、それぞれの立場で研究した論文がいっぱい出てきた。そのいくつかを私が翻訳して出して、低線量の被害の関係がだいぶ明らかにできるようになった。そういう大事な、突破口になった理論です。

ところで、この人が書いた最初の論文は、短いのですが、翻訳しようと思っても使っている言葉が難しくて。原稿だけ作ってあるんだが、まだ翻訳しきれてない。そういう難しい理論です。ただ、理屈は今言ったような、非常に大事な原則を頭で考えたのではなく、実験で証明した、その点で画期的な理論です。

埼玉反原発アクション資料転載

                    










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